百歩の道も一歩から
あった!

01BK らうぢ

Joleschで、過去の写真も買えると裕明が知らせてくれたので、覗きに行ってみました。
ありました、ありました。
これ、買いそびれてたんです。
見た瞬間、いっぺんに5年前に引き戻されてしまって、胸が痛くなりました。
ちょうど今頃だったなぁ、Jasonとのやりとりが進まなくて、自暴自棄になってたの。
Jasonに猛烈に抗議したら、直後に「来い」と言われて..。
「バカにしてる。絶対に行かん」と言いつつも、BKのサイト見ながら「食事は悪くなさそう」と呟いたのには笑ったっけ。

ずいぶん長い間、「あれでよかったんだろか」と思い続けても来ました。
SCVに残ると言い出した時に、反対しなければよかったんだろか。
2000年、行かせてやればよかったんだろか。
過ぎたことはどうにもならないことだとわかってても、そして、本人の意志で選んだことだとわかってても、エイジアウト後、自分の中に閉じこもってしまった彼を見る度に、思いました。
そして、親がこんなだから、息子があんなになっちゃったんだろなとも。
そんな、あれやこれやが思い出されて、このたった1枚の画像には泣かされました。

でも、今の隆司を見ていると、全てを無駄にはしてないなと思えます。

隆司は「いらん」と言うかもしれないけど、買っとこう。
| 正木京子 | memory | 02:37 | comments(0) | - |
やんちゃと言えば..
私も「かなり」だったらしく、祖母は「男の子3人育てるより手がかかる」と嘆いたとか。
「らしく」とか、「..とか」としか言えないのは、本人の記憶には、「とってもおりこうな私」しか残ってないからで。

年のせいでしょうか..、最近ふと子供の頃のことを思い出すことが多くて、だいたいつまらな〜〜〜い話ばっかなんですが、なぜかスタッフにウケるので、休憩時間は「思い出語り」になります。

金曜の話は、「トイレのカレンダー」
伯父の家に親類が集まった日のこと。
トイレに行くと、ドアにカレンダーが掛かってます。
見ると、日付けのマスに○や×が書き込んである。
○と×の数は妙に規則性のあるようなないような..。
子供の頃から、私はランダムな記号や数字の並びが大好きなんですが、その日も何かの法則でも見つけたのか、横にぶらさっていた鉛筆で、嬉々として「×」を書き込んでました。多分、夢中だったんでしょう。
トイレから出て、皆の集まる部屋に戻った時には、自分がしたことも忘れて従兄弟たちと遊んでいました。

しばらくして、伯母が血相変えて部屋に飛び込んできました。
「ヒロトシ! あなた今日下痢してるの?」
ヒロトシはきょとんとしてます。

その瞬間、私は自分が「ナニ」をやらかしたのか、知ったのでした。
トイレのカレンダーの「○」「×」は、従兄弟の「お通じ」の様子と回数の記録だったんでした。
家が商売していて、生まれつきお腹の弱かった息子に常に目を配ってやれない伯母が考え出した、子供とのコミュニケーションツール。

「わっちゃ〜〜」心のなかで叫んだものの、「私がやりました」と言うに言えず、そのまま黙秘。
40年ほども経つのにいまだに忘れられないのは、よほど「大変なことしちゃった..」と思ったからなんでしょう。
ハイ、この十字架、一生背負って行きます。

って、キミら爆笑してるし..。
| 正木京子 | memory | 06:07 | comments(0) | - |
学級崩壊と再生・まとめ
K先生は、その後も問題学級をいくつも担任しては再生するという技を発揮し、後にご家族の転勤に伴って東京の小学校に転勤されましたが、数年前にこちらに戻って来られました。
都内の小学校でも、実績を買われて崩壊学級を担任し、見事に立て直されたそうですが、その時期に「あなたは学校の方を向かないで子供たちの方ばかり見る」と職員間から苦言を浴びたことがあったとかで、「教師が子供の方を向かないでどこを見る?」とMさんとは苦笑になりました。

私たちが、子供たちから学んだのは、「子供と向き合うこと」でした。
向き合っているうちに、子供の方から答えを出すようになるのだということを得ました。
取りも直さず、どんな人とも向き合っていれば、自然に答えは導き出されるようになるんではないかと思っています。

今、見渡してみると、カウンセラ−になったり、保育所を経営したりと、何らかの形で人や子供と関わる仕事をしている人が多く、それぞれに種を植え付けられたのかもしれません。

私たちの子育てはほぼ修了しました。
子供を育ててよかったなぁと思うのは、乗り越えて来たいくつもの山が、踏み固めて来た道の後ろにたくさんの木を生い茂らせてそびえていることです。
大変なことも過ぎてみるとみんなステキに見えます。
素晴らしい思い出をくれた子供たちに感謝。

学級崩壊と再生1
学級崩壊と再生2
学級崩壊と再生3
学級崩壊と再生4
学級崩壊と再生5
| 正木京子 | memory | 03:22 | comments(0) | - |
学級崩壊と再生5
「チャーハン作りにつとめよう」
この標語は、色とりどりの具の入った大きなフライパンと共に描かれ、1年間黒板の上に貼り出されて、学年が終わる頃には、ほどよく色褪せていました。
この1年は、これまで分散して他に向けられていたパワーが、クラスを核にして凝縮されたような年でした。
音楽、体育、図工、何をやっても学年で、また市内で1位になったり表彰されたりして、フライパンの絵の横には次々にそれらの表彰状が掲げられ、子供たちは誇らし気で、前年の出来事がまるで悪夢だったかのように思えました。

5年生の1年間を振り返る時、担任に対する想いは様々ありますが、学級崩壊と言われるほどに荒れてしまうには、担任の学級経営能力だけでなく複合要素が絡んでいたと思います。
隆司たちが入学した翌年、学校は創立100年を迎え、戦争中に受けた空襲の弾痕が残るような古い校舎の建替え計画が進み、ちょうど5年生になった時に、まずプールの解体から始まって、3年計画でフルリニューアルが行われました。
建替期間の3年間を居住地域によって周辺の3校に分割して通学させる案も出されていたのですが、結局、学年を分割させずに運動場にプレハブ校舎を建て、騒音と埃に包まれながら過ごすことになりました。

馴染んだ校舎が解体されていく様子を目の当たりにし、半分以下の面積になった運動場を譲り合って使い、水泳の授業は他所の学校まで歩いてプールを借りに行くという学校生活。学年を分割せずに友達と一緒にいられるようにするために払った代償は、小学生にとっては大きなストレスになったに違いありません。
しかも、新校舎の竣工は隆司たちの学年の卒業後になることも最初から分かっており、「僕ら我慢ばっかりや」とよく言っていました。

十分な調査はされたはずなのです。
何よりも子供たちのことを考えて、計画が進められたはずだったのです。
でも、子供たちがどんなストレスを抱え、どんな行動に出るのかまでは予測されていなかったのかもしれません。
ある意味、5年生の担任のT先生も犠牲者だったと言えるのかもしれませんし、子供たちも後に「5年生の1年間があったから、6年生のあの1年間があった」と言えるほどに成長することができました。

でも、たまたま結果として、隆司たちはK先生と出会って、「自分たちの力」で学級を立て直すことができ、その後も結束の固い友人になることができましたが、十代初頭に大人に不信感を持たせてしまったのは、どこから見ても大人の責任だと思っています。

学級崩壊と再生1
学級崩壊と再生2
学級崩壊と再生3
学級崩壊と再生4
| 正木京子 | memory | 16:37 | comments(0) | - |
学級崩壊と再生4
椅子や机が飛ぶ状態が続いていたのですから、学校側が何も知らないはずもなく、それを保護者に知らされていなかったことも大きな問題で、学校側とも話し合いを持ち、当然、担任を変更してほしいという希望も出ました。
学年途中での担任変更は容易ではなく、すでに3学期に入っていたこともあって、結局そのままその学年を終えたのですが、同じ学年の他の2クラスの担任が男性教諭だったこともあり、クラスに騒ぎが起きれば、そのA先生かE先生が駆け付けるということで乗り切りました。

先日、Mさんと当時を振り返りながら、懐かしく思い出していたのですが、「あの頃の私たちって、『うちの子が』『この子が』って言わなかったねぇ。『この子たち』だったねぇ」
「ホントに不思議なくらい、自分の子のことだけ考えてる人ってなかったね」
町全体で、学校全体で、子供を育てようという気風がまだ残っていた時代でした。

いよいよ、5年生が修了して6年生になる時に、クラス替えも案には上がりましたが、クラスの編成はそのままで、担任だけを変更という策に落ち着きました。結果論としては、この方法が最も有効であったということになるのですが。
T先生は、その後、自宅療養後、現在も教諭として勤続中と聞きます。

さて、新しく子供たちの前に立たれたK先生は、6年生になった子供たちの大方の子より小さな、小柄な先生でしたが、声が大きくて行動力は人一倍ある先生でした。
K先生が最初にされたことは、「チャーハン作りにつとめよう」という標語づくりで、「一人一人は、質も味も違う具だから、それぞれが美味しい具になって、みんなで一つのチャーハンを作りましょう」という意味を持たせられました。

赴任したばかりの学校で、すぐに家庭訪問に回って来られたK先生に、「色々お聞きとは思いますが..」と切り出した時、先生が仰ったことはステキでした。
「何も引き継いでないんです。引き継ぎを言われましたが、私はこの子たちに先入観を持ちたくなかったのでお断りしました。子供たちが真っ新な気持で私に接してくれている以上、私も真っ新な心で向かい合います」

子供たちも1年間荒れに荒れて、きっと疲れ切っていたのでしょう。
そこからの変化は奇跡のようでした。

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学級崩壊と再生2
学級崩壊と再生3
学級崩壊と再生5
| 正木京子 | memory | 05:06 | comments(0) | - |
学級崩壊と再生3
さあて、子どもと向き合うことを忘れて、保身に走った教師との闘いの火蓋が切って落とされたわけですが、個人懇談のその日から、次々にクラスの何人かのお母様たちから連絡があって、クラスに暴力が蔓延していること、担任はほとんど授業放棄状態であることも知りました。
子供たちは、その学年が始まった当初から、どんな事象に対しても、ヒント一つなく「あなたたちで考えなさい」としか言わない担任に不信を持ち、一部の子どもたちから反抗が始まり、児童vs教師の反目が2学期になって集団暴力になって表れたというのが、一通りの話を繋ぎあわせて検証した結果でした。
何度も問題の当事者である親たちが集まって、今後の対策を錬りました。

幸い、「特定の参観日でなくてもいつでも様子を見に来てください」という考えの校長でしたので、毎日当番を決めて学校へ参観に行くことにしました。
とにかく、暴力を鎮めることと、その学年の授業をできるだけ進めることが急務でした。
隆司にも、「今後、絶対に学校で暴力をふるわない」ことを約束させました。
学校で暴れなくなると、家で暴れるようにはなりましたが、3学期に入って暫くした頃に、それも収まりました。

この暴力を沈静してくれたのが、M家だったのです。
M家のD君は、一人っ子だったこともあって、とても人なつっこい子でしたが、1学期からすでに不登校がちになっていました。
気を遣わないといけない他の兄弟がいないということが気楽だったのか、やがて、エネルギーを溜めた子たちが毎日のようにM家に集合していました。
Mさんは、その頃、東山紘久氏(現京大副学長)に師事し、子育てについて研究中でもあって、子供たちの様子をつぶさに観察し、子供たちの言葉を「聞く」ことに徹して下さっていましたので、子供たちは上手にガス抜きしていただけたのだと思います。

Mさんのお誕生日には、みんなでお小遣いを出し合って、バラの花束をプレゼントするほど、子供たちはMさんを大好きでした。
親たちも、フラワーアレンジメントの講師でもあるMさんのお宅の、ホッとくつろげるリビングでお茶を飲むのが楽しみになっていました。
隆司も、毎日のようにM家に入り浸って帰って来ましたが、あの時、Mさんがいなかったら、あのエネルギーはいったいどこに噴き出していたのだろうと思うと、今でも恐ろしくなることがあり、本当にMさんには感謝してもしきれません。

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| 正木京子 | memory | 16:30 | comments(0) | - |
学級崩壊と再生2
「いつもお世話になりまして..」
挨拶もそこそこに、T先生は雪崩のように話し始めました。

「隆司君が暴れて困っています」
「は?」
「机や椅子を投げるんです」

まさか..。目の前が真っ白になりました。
言葉を失っている私に、先生は畳み掛けるように次々に話し続けました。
全く先生の言うことは聞かない。奇声を上げて授業の邪魔をする。
今日も、いきなり体当たりしてきたので、胸に内出血した。
こんな状態が2学期が始まってからずっと続いている。
ここまで聞いて私は「??」。
やっと切り返しました。

「先生、それじゃあ、先日ご相談に伺った時には、もう暴れていたってことですか?」
「そうです」
「あの時、私はどうも変だと思って、ご相談に伺いました。でも、先生は変わったことはないっておっしゃいましたよね?」
「はい。言いました。お母さんにご心配をかけないように解決しようと思っていました」
「それは違うんじゃないですか? 私はあの時、心配だったからお訪ねしたんです。今まで黙っていらしたのは、別の理由じゃないんですか?」
瞬間、T先生の顔が醜く引きつりました。
しばらくの沈黙があって、その間、私は「隆司はどんな想いで過ごしていたんだろう。どうして気付いてやれなかったんだろう」と考えていました。

「先生、私は帰って隆司になんと言ってやればいいですか?」

次の一言で、私は学校に対して、完全に不信感を持ちました。

「さぁ、今から坂を下りられる間に考えられたらいいんじゃないですか? 私は言いたいこと言わせていただいてすっきりしましたから」
「先生、これは誰のための懇談会なんですか? 先生のお考えはわかりました。私たちは家族で隆司のことを考えます。ですから、先生はもうこれ以上何もおっしゃらないでください」

うちの家は、学校から坂を下りたところにあります。ほんの2分ほどの間に、私は「帰ったらなんと言おう..」と考えましたが、何も思い付きませんでした。
家に帰って玄関を開けたら、そこに隆司が、私を一歩も家に入らせないぞと言わんばかりに仁王立ちになって立っていました。きっと、先生から何を言われるか、怯えながら待っていたのだと思います。

「あんた、つらかったんやねぇ」。それしか言えませんでした。
そう言った途端、隆司は声を上げて泣き出して、私も抱き寄せながら一緒に泣きました。
泣くだけ泣いて落ち着いたころに、ポツポツと今学校で起きていることを話してくれました。

その日から、学校と私たちとの闘いが始まりました。

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| 正木京子 | memory | 20:18 | comments(0) | - |
学級崩壊と再生1
「子供の様子がおかしい..」
気付いたのは、小5の隆司が毎日ズボンの両ポケットに石ころと木の実を入れて帰って来るようになった時でした。
毎日毎日、洗濯の時に、ポケットから石ころと木の実が転がり出るのです。

仕事をしていると、学校から帰って来た直後の子供の顔を見ることができません。
子供は、私と顔を合わせるまでの数時間の間に顔を繕ってしまいますから、子供の変化を見落としがちになります。
食事時や後片付けの間の会話や、兄弟で交わしている言葉に、じっと耳を傾けていても、察知できないことがあります。
いつもと変わりない隆司でしたが、5年生になった男の子がズボンのポケットをそんなもので膨らませて帰って来るのは絶対におかしい! 何かがあったに違いない。

思いあまって、ある日、仕事を抜けて学校を訪ねました。
担任のT先生に事情をお話して、「何か変わったことはないですか?」とお聞きしました。
「特に変わった様子は見られないですよ。私も気をつけてみますが、時々そんなことをする子はいますから」というお返事でした。
「思い過ごしかな..」と思いながら観察し続けていると、やがてポケットに石ころを詰め込んで帰ってくることはなくなりました。
隆司は、結局、特に大きな問題もなく過ごしているように見えていました。

それから2ヵ月ほど経って、学期末の個人懇談の日になりました。
私は、あの日を忘れません。
あの日の担任の言葉も表情も、忘れようとしても忘れられません。
いつも通りの懇談のつもりで学校に出かけ、T先生と向かいあった次の瞬間、先生の口から、信じられないような言葉が次々に飛び出したのです。


学級崩壊と再生2
学級崩壊と再生3
学級崩壊と再生4
学級崩壊と再生5
| 正木京子 | memory | 02:21 | comments(0) | - |
原点
昨夜のアポは、仕事半分私用半分のMさん宅でした。
たいていの用は、電話ですませてしまうのが、たまにどうしても会いたくなることがあって、昨日もそんな日だったので、夜に時間をとってもらいました。

M家との出会いは、M家の一人息子D君と隆司が小学校受験の時にたまたま受験番号が前後していた時に遡ります。結局二人とも同じように不合格になり、地元の公立校に入学し、同じクラスになった小5まで、行事は全てご主人が出ていらしたので、Mさんと顔を合わせたのは、「学級崩壊」というあってはならないことが起きてしまってからでした。

この時代の同級生たちは、親も子も今も親しくしていますが、どの親も口を揃えて言うのが「あの頃が原点だった」。
子供と向き合い、親同士が手を取り合った1年半でした。
あの時代の親たちは、その後、なんらかの形で「子供たちと関わる」仕事や立場に就いていて、そういう意味でも「原点だった」の言葉が出てくるんでしょう。

私も、「子供たち」を考える時、「教育」を考える時、あの時期に回帰していきます。
あの頃の同級生たちには、ぼつぼつと結婚する子も現れて、そのせいか最近特に、あの時期の話がよく出るようになりました。
振り返ってみると、ほんとに凄い時代を通り越したんだなぁと思います。

「学級崩壊と再生」少しずつ分けて書いていくことにします。
| 正木京子 | memory | 07:05 | comments(0) | - |
35年前
O川が誰かに似てると思ったら、今は兵庫の田舎で保健婦をやってる高校時代の友人にそっくりだということに気付きました。
そんなせいか、あれこれ高校時代のことが甦って、たまたまあまり深く考えないで出来る(つか、考えると出来なくなる)作業が集中する日だったこともあって、昨日は思い出語りの一日となり..。

なかでも、その日の空の色まで思い出されるのは、高1の時に、陸上部の試合を応援に行った時のこと。
その当時の私はテニス部で、テニスコートの横のグランドを走る陸上部のF先輩に憧れて、ボール拾いしつつ視線はF先輩の姿に釘付け..みたいな。
ある日、市内の競技大会があって、もちろんF先輩の勇姿を見るために、私は尼崎記念公園陸上競技場のスタンドにいました。(その当時、mc Sisterがバイブルだった私は、白ブラウスに白セーター、タータンチェックのスカートだったということまで思い出した)

と、友人のYが向こうから足を引きずってやって来ました。
スパイク履いたままコンクリートの階段を昇降し、足を挫いてしまったというアホなヤツでしたが、さらに恐ろしいことを言うんです。

「リレー走ってくれへん?」
「は??」
100m走15秒かかる私に走れと?
「ビリになってもええの。最下位でも点数はつくけど棄権したら0点になる。なんとか走って!」と先輩からも頭を下げられ、他に要員がなかったのか、なぜ私に白羽の矢が立ったのかは忘れてしまったけど、にわかリレ−選手になってしまいました。

Yの体操着に着替えさせられたけど、私よりうんと大きな子で、しかも陸上で鍛えた太腿だから、彼女のブルマを履くと足回りはぶかぶか。
うぅ〜〜、こんな姿はF先輩に見られたくない。

出走までのわずかな時間にしたことは、バトンワークの練習だけ。

「後ろから『行け!』って声をかけるから、手は上に向けないでそのまま全速力で前向いて走れ。必ず追い付いて、下から持たせるから。
バトンを受け取ったら、とにかく手を大きく振って走れ。
次のランナーには、掌に向けて下から思いっきりバトンを振り上げてタッチする」
ド素人にアンダーハンドパスをさせようなんて、なんて陸上部なんでしょう。

ハイハイ、言われた通りにしましたよ。
後ろから走ってくる前走者に「行け!」って言われた瞬間、真直ぐ前向いて走った。
バシッてバトン渡されて、夢中で「手を振ることだけ」集中して、次の走者の姿が走っても走っても近づかないような心細さいっぱいだったけど、走るしかないから走った。
せっかくそれまでの走者が順位を稼いでくれていたのに、どんどん他校に追い抜かれて行って、ますます心細かったけど、でも走った。

棄権という最悪の事態を回避し、ラッキーなことに最下位も免れて、まぁ、それなりに役に立ったけど、一番悲しかったのは、走り終わってトラックから出たところでF先輩が近づいてきて「ありがとう」って言って下さったことで..。

「わぁ〜〜〜、近づかないで〜〜、こんなブカブカのブルマ姿見ないで〜〜〜」って、心の中で叫びまくったなぁ。

この話に爆笑しまくっていたO川、
「でも、それでお近づきになれたんだからよかったじゃないですか」
「そんなきっかけでお近づきなれたら、あとはお笑い系で過ごすしかなかったわよ」

淡い恋、片思いのまま終了。

ちなみに、こちら35年前の私。
誰かさんが、ずいぶん前に気に入って下さったので、再掲。
| 正木京子 | memory | 12:49 | comments(0) | - |
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